「新た」の母は?
あらた。
新た。元々日本古来からある言葉のひとつです。
この「新た」とは、現代語の「新しい」ってことです。新品、なのです。
だから、汚れていません。
真っ白とでもいうか、透明とでもいうべきかいずれにしても、汚れない状態をこの「新た」という言葉で表現しています。一切の過去を引きずってはいないのです。
新年は、年が新しくなったという意味です。
よくこんなことばを聞きます。
「せっかく新しくなったんだから、今までのことは忘れて出直そう」
「新しくなったけど、いままでと、どこが違うのか」
意識的にしても無意識的にしても、過去と比べた「新た」は、じつは「新た」ではないのです。
「新た」は、過去とのつながりはありません。別のものが出現したのですから。
「今までのことは忘れて」ではなくて、「くらべるものではない」ものなのです。
違いを指さすものでもないのです。比べるものではないから。
過去との継続性はありません。
「無」から出てきたものが、「新た」という訳です。つまり、「時/場」の言葉たちが違っているのです。
「無」は「新た」を生む母なのです。
「無」とは、なにもない、ということ。
人が生きていて、「無」を作り出すことは容易いことなのに、それをしたがりません。過去の事柄から現在の自分の生き方を選んでも、それは過去のオプション。未来は過去へ進んでいるだけです。
「私は人との関係を断ち切った」なんて、いかにもクールなことを言う人がいます。
しかし、現実は、というと「断ち切った」のではなくて、相手の人たちから「断ち切られている」のかもしれませんね。
「映画見に行く?」「このお店美味しいよ、行く?」「旅に出ようか?」「一緒に行く?」
人から誘われても「やだ」「行かない」「行きたくない」…だのと、そのたびに人の誘いを拒んでいたら、周りからいつの間にか誘いの言葉がなくなっていきます。「どうせ、無駄だから」と。
誘われるが花…という日本古来の言葉を生かしていない人たちのようです。古来日本の祖先の言葉たちが入っていない人たちなのかな?
数珠は、一本の糸で珠をひとつひとつ繋げています。あの数珠玉のひとつひとつが「新た」であり、それが集まって、数珠になっています。
大海原の海底から浮かび上がった小さな水泡のようなものです。
見つけ出すのには、人知れず苦心しますが、見つけ出せた発見の喜びはかけがえのない感動でもあります。
それが「新た」という言葉との出逢いでした。
日本古来の言葉たちを知れば知るほどに、思わず頭が下がります。
ボクが今でも使っているこの言葉の中に、大和の心が入っていたとは…。時空を越えて、ボクの祖先たちの生きた証がボクの言葉の中で「永遠」になっています。
ボクは人になにもしてあげられない。けど、ひとつだけ出来ることがあります。
言葉たちを花束にして、贈ることなら、ボクには出来ます。
そして、それは全世界の人々が容易く出来ること…。耳を澄ませば聞こえてくる言葉たちの中にまたひとつ「新た」な水泡が光っていました。
…まさみ…
新た。元々日本古来からある言葉のひとつです。
この「新た」とは、現代語の「新しい」ってことです。新品、なのです。
だから、汚れていません。
真っ白とでもいうか、透明とでもいうべきかいずれにしても、汚れない状態をこの「新た」という言葉で表現しています。一切の過去を引きずってはいないのです。
新年は、年が新しくなったという意味です。
よくこんなことばを聞きます。
「せっかく新しくなったんだから、今までのことは忘れて出直そう」
「新しくなったけど、いままでと、どこが違うのか」
意識的にしても無意識的にしても、過去と比べた「新た」は、じつは「新た」ではないのです。
「新た」は、過去とのつながりはありません。別のものが出現したのですから。
「今までのことは忘れて」ではなくて、「くらべるものではない」ものなのです。
違いを指さすものでもないのです。比べるものではないから。
過去との継続性はありません。
「無」から出てきたものが、「新た」という訳です。つまり、「時/場」の言葉たちが違っているのです。
「無」は「新た」を生む母なのです。
「無」とは、なにもない、ということ。
人が生きていて、「無」を作り出すことは容易いことなのに、それをしたがりません。過去の事柄から現在の自分の生き方を選んでも、それは過去のオプション。未来は過去へ進んでいるだけです。
「私は人との関係を断ち切った」なんて、いかにもクールなことを言う人がいます。
しかし、現実は、というと「断ち切った」のではなくて、相手の人たちから「断ち切られている」のかもしれませんね。
「映画見に行く?」「このお店美味しいよ、行く?」「旅に出ようか?」「一緒に行く?」
人から誘われても「やだ」「行かない」「行きたくない」…だのと、そのたびに人の誘いを拒んでいたら、周りからいつの間にか誘いの言葉がなくなっていきます。「どうせ、無駄だから」と。
誘われるが花…という日本古来の言葉を生かしていない人たちのようです。古来日本の祖先の言葉たちが入っていない人たちなのかな?
数珠は、一本の糸で珠をひとつひとつ繋げています。あの数珠玉のひとつひとつが「新た」であり、それが集まって、数珠になっています。
大海原の海底から浮かび上がった小さな水泡のようなものです。
見つけ出すのには、人知れず苦心しますが、見つけ出せた発見の喜びはかけがえのない感動でもあります。
それが「新た」という言葉との出逢いでした。
日本古来の言葉たちを知れば知るほどに、思わず頭が下がります。
ボクが今でも使っているこの言葉の中に、大和の心が入っていたとは…。時空を越えて、ボクの祖先たちの生きた証がボクの言葉の中で「永遠」になっています。
ボクは人になにもしてあげられない。けど、ひとつだけ出来ることがあります。
言葉たちを花束にして、贈ることなら、ボクには出来ます。
そして、それは全世界の人々が容易く出来ること…。耳を澄ませば聞こえてくる言葉たちの中にまたひとつ「新た」な水泡が光っていました。
by masami-ny55
| 2006-09-25 23:59
| 日記