電車嫌い
先週の日曜日。
板橋のアパートから、この日、仕事先の王子までタクシーを使った。
駐車場がない、との電話連絡があったから自分の車は置いたままにして、タクシーで行った。
電車を使うとしたら…どういう経路なのか。そもそも、行き方がわからない。第一、時間がかかりそうである。
タクシーで板橋から王子なら、さほどの距離でもない。
王子での仕事が済んだので、人の運転する車に便乗して職場のある春日まで。これも、たいした時間ではない。
いつも、使っている道なので自分でもわかっていた。
春日に到着すると、今度は、作曲家の編曲した譜面を取りに行く約束を思い出した。
職場から明大前まで、電車で行かなければならない。クルマがないからである。
春日から神保町まで都営地下鉄で行き、乗り換えて明大前へ…と、スタッフはそこまでの経路を言う。
「ボク、一人で行くの?」
「当たり前です!」
寂しい、こわい、つまんない、わかんない…思いつく限りの不安材料を並び立てたが、
「ひとりで、どうぞ…」
と、素っ気ない。万が一、私が迷子にでもなったら、このスタッフたち、どうする気なのか? 彼らの気が知れない…。
まったくもって、薄情極まりないスタッフたちである。
しかたない。近くにいた雪ダルマみたいな女性と、無表情なPCの女先生に、
「ねぇ、一緒に…ダメかなあ」
と、誘う。彼女たちは明らかにいやいやだったが、連れて行けることになった。やったぁ!
これで寂しくなくなった。話し相手が出来た。
明大前での用事が済んで、このふたりとまた、電車に乗って春日に戻った。もちろん、退屈はしなかった。ふたりがどうだったかは、知らないが…。まあ、よし、としましょう。
そして、夜。職場を出る。
スタッフたちと電車に乗って、帰宅である。
「マサミさんと電車に乗るのは、三年間で二度目です」
と、スタッフのひとりが言う…。もう一人のスタッフが、
「マサミさんは電車が嫌いだから」
そう。私はいつ頃からだったか、電車が嫌いになった。
電車が嫌い、というよりも、電車に乗っている人たちの「目」が嫌いなのである。こわい目、に見える。生き生きした目、に見えない。
混んでいるのに、無表情に乗り合わせる人たちの表情が不気味だった。声を掛け合うことをしない。黙っている…そう、あの沈黙が、私には、こわい。すみません、とか、こっち空いてますよ、とか、疲れるよねぇまったく、とか…。声をかけない人たちが、こわい。
座っている人たちの姿勢を見ると、感心できない人が大勢いる。
ニューヨークの地下鉄
昔、ロバート デニーロが満員電車の中で女性に声をかけ、その後ふたりは恋に落ちる…という映画があった。舞台は、ニューヨークの通勤で使う地下鉄の中である。ニューヨークなら、あり得る話である。しかし、同じ都会とは言え、東京ではまず起きない。そもそも、話声がないのだから…。
学校を卒業して新聞記者になった理由のひとつに、この「電車に乗りたくない」との希望があったからでもある。
毎日、満員電車で勤め先まで行く…三十数年間も、と考えただけで「私には、無理」だった。
ニューヨークにいた頃、地下鉄に慣れると、よく乗ったものだ。ビレッジに行くときも、ヤンキースタジアムにも、アッパーウエストでお茶するときも…そして、女性の友だちとも。車内の人々の表情を見るだけでも、楽しかった。大きな紙袋を抱え込んだデブッちょの黒人だの、ヘアスタイルを窓に映して撫で回している青年とか、ステッキに帽子姿の紳士だの…。みんな、生き生きしていた。
今だから話せるが、空いているときに車内で堂々と煙草まで吸ったものだ。いまは、もうダメだけど…あの頃は、よかった、のか?
なんと言っても車内の特徴は、すぐに話しかけてくることだった。
例えば、私の読む日本語の本は、縦書きである。隣に座った老人から、「なんだね? それは」と、不思議そうに質問されたこともあった。混み合っているとき、女性に席を譲ると、笑顔で「ありがとう」の言葉が必ず返ってくる。それがまた、うれしかった。英語がもう少し達者なら、おしゃべりでもしたくなるほど、だった。
クルマなら、ひとりで勝手に出来る。冷えた缶コーヒーを飲みながら、お気に入りのCDが聞けるし。煙草だって、吸える。
銀座に出ても、駐車場さえ知っていれば時間は自由になる。不経済かもしれないが、それでも自由を奪われる方が、私にはつらい。
そう言えば、日曜日に乗った電車の中で私が見たものは、あの携帯電話でメールをしていた人の大勢いたことだ。
電車の中でも人に声がかけられないから、声を使わずに「メール」を書き込んでいる姿に、こわさより哀しさを感じてしまった。
やはり、私は今後もクルマにすることにした…。
…まさみ…
板橋のアパートから、この日、仕事先の王子までタクシーを使った。
駐車場がない、との電話連絡があったから自分の車は置いたままにして、タクシーで行った。
電車を使うとしたら…どういう経路なのか。そもそも、行き方がわからない。第一、時間がかかりそうである。
タクシーで板橋から王子なら、さほどの距離でもない。
王子での仕事が済んだので、人の運転する車に便乗して職場のある春日まで。これも、たいした時間ではない。
いつも、使っている道なので自分でもわかっていた。
春日に到着すると、今度は、作曲家の編曲した譜面を取りに行く約束を思い出した。
職場から明大前まで、電車で行かなければならない。クルマがないからである。
春日から神保町まで都営地下鉄で行き、乗り換えて明大前へ…と、スタッフはそこまでの経路を言う。
「ボク、一人で行くの?」
「当たり前です!」
寂しい、こわい、つまんない、わかんない…思いつく限りの不安材料を並び立てたが、
「ひとりで、どうぞ…」
と、素っ気ない。万が一、私が迷子にでもなったら、このスタッフたち、どうする気なのか? 彼らの気が知れない…。
まったくもって、薄情極まりないスタッフたちである。
しかたない。近くにいた雪ダルマみたいな女性と、無表情なPCの女先生に、
「ねぇ、一緒に…ダメかなあ」
と、誘う。彼女たちは明らかにいやいやだったが、連れて行けることになった。やったぁ!
これで寂しくなくなった。話し相手が出来た。
明大前での用事が済んで、このふたりとまた、電車に乗って春日に戻った。もちろん、退屈はしなかった。ふたりがどうだったかは、知らないが…。まあ、よし、としましょう。
そして、夜。職場を出る。
スタッフたちと電車に乗って、帰宅である。
「マサミさんと電車に乗るのは、三年間で二度目です」
と、スタッフのひとりが言う…。もう一人のスタッフが、
「マサミさんは電車が嫌いだから」
そう。私はいつ頃からだったか、電車が嫌いになった。
電車が嫌い、というよりも、電車に乗っている人たちの「目」が嫌いなのである。こわい目、に見える。生き生きした目、に見えない。
混んでいるのに、無表情に乗り合わせる人たちの表情が不気味だった。声を掛け合うことをしない。黙っている…そう、あの沈黙が、私には、こわい。すみません、とか、こっち空いてますよ、とか、疲れるよねぇまったく、とか…。声をかけない人たちが、こわい。
座っている人たちの姿勢を見ると、感心できない人が大勢いる。
ニューヨークの地下鉄
昔、ロバート デニーロが満員電車の中で女性に声をかけ、その後ふたりは恋に落ちる…という映画があった。舞台は、ニューヨークの通勤で使う地下鉄の中である。ニューヨークなら、あり得る話である。しかし、同じ都会とは言え、東京ではまず起きない。そもそも、話声がないのだから…。
学校を卒業して新聞記者になった理由のひとつに、この「電車に乗りたくない」との希望があったからでもある。
毎日、満員電車で勤め先まで行く…三十数年間も、と考えただけで「私には、無理」だった。
ニューヨークにいた頃、地下鉄に慣れると、よく乗ったものだ。ビレッジに行くときも、ヤンキースタジアムにも、アッパーウエストでお茶するときも…そして、女性の友だちとも。車内の人々の表情を見るだけでも、楽しかった。大きな紙袋を抱え込んだデブッちょの黒人だの、ヘアスタイルを窓に映して撫で回している青年とか、ステッキに帽子姿の紳士だの…。みんな、生き生きしていた。
今だから話せるが、空いているときに車内で堂々と煙草まで吸ったものだ。いまは、もうダメだけど…あの頃は、よかった、のか?
なんと言っても車内の特徴は、すぐに話しかけてくることだった。
例えば、私の読む日本語の本は、縦書きである。隣に座った老人から、「なんだね? それは」と、不思議そうに質問されたこともあった。混み合っているとき、女性に席を譲ると、笑顔で「ありがとう」の言葉が必ず返ってくる。それがまた、うれしかった。英語がもう少し達者なら、おしゃべりでもしたくなるほど、だった。
クルマなら、ひとりで勝手に出来る。冷えた缶コーヒーを飲みながら、お気に入りのCDが聞けるし。煙草だって、吸える。
銀座に出ても、駐車場さえ知っていれば時間は自由になる。不経済かもしれないが、それでも自由を奪われる方が、私にはつらい。
そう言えば、日曜日に乗った電車の中で私が見たものは、あの携帯電話でメールをしていた人の大勢いたことだ。
電車の中でも人に声がかけられないから、声を使わずに「メール」を書き込んでいる姿に、こわさより哀しさを感じてしまった。
やはり、私は今後もクルマにすることにした…。
…まさみ…
by masami-ny55
| 2005-07-20 01:53
| 日記