手紙

アパートの玄関に、住人達の郵便受けが並んでいる。
玄関の入り口を鍵で開けて中に入ると、郵便受けの裏側に出る。投函された郵便物は、ここで受け取るという仕組みになっている。
裏側の蓋にも、鍵がかかっている。ダイヤル式だ。右に何回か回して数字をそろえる。確認して、今度は反対の左側に数回か回してから決められた数字で止める。そして、蓋が開いて、郵便物が取れることになっている。
雨の日は、手がぬれているから思うように回せない。急いでいるときは、気持ちが焦っているので勢いよく回しすぎて、決められた数字を通過してしまう。やり直し、である。急いでいるから、それだけで腹が立ってくる。
便利なのか不便なのか…。
しかし、郵便受けに入ってるのは、チラシの山である。その山を取り上げて、中に手紙がないか、探してみる。まず、ない。あるものは、公共料金の請求書と電話代の知らせである。大事なものなので、捨てるわけにはいかない。あとは、郵便受けの下に置いてあるゴミ箱へ。

手紙は、まず、ない。

手紙_e0013640_545851.jpg昨日のことだった…
帰ってくると、玄関の郵便受けの口から、チラシがのぞいている。だいぶ、溜まっているようだ。
いつものように、ゴミの中から公共料金の封筒を探したが、なかった。では、全部ゴミか…と思ったら、手紙が一通紛れ込んでいる。
確かに、私宛だ。海外に住んでいる友だちから、私宛に届いた手紙だった。
ゴミの間に紛れ込むようにしてあったから、この郵便受けの中でしばらく寝かせてしまっていたようである。

封筒に入ったその手紙を持って、部屋にはいると、手紙をすぐには開封せず、コーヒーを入れる。そして、愛用のマグにコーヒーを注いでテーブルに運ぶ。テーブルには、先ほどの手紙が置いたまま。熱いコーヒーをすすりながら、手紙に目を通す…。
書き慣れした書体が読みやすく、また美しい。
封筒は、アイボリー系のやや黄色が混じった白地だ。大きさは海外便で普及しているスタンダードのサイズ。ペンのインクののりがいい。便箋は、小型である。持ち運びに適したサイズで、ひとり喫茶店でも書けそうなサイズに手紙の主の個性を感じる。そして、これもまたペンの跡が残るほど、インクののりが良さそうである。
私は、この手紙の主とは、まだ面識がない…。そして、今後も会うことはないだろう。相手もまた、そのつもりのはずである。

昔々。
全世界に「文通」というゲームがあったという…。知らない人同士が、あるとき相手の住所を知る。文通を希望する人たちが集まったその中から、選ぶことも出来たと聞く。そして、手紙を書く。まずは自己紹介を書く。個性的に書く人もいただろうし、わざと平凡に書く人もいただろう…。返信が、自分の郵便受けに届く。感動、だったことだろう。
相手の筆跡から、人柄を感じ取ろうと想像する。趣味の話題から、ふるさとの話、青春時代のこと、好きなこと嫌いなことと、はじめはきっと他愛ない事柄を書いていたのではあるまいか…。次第に、どちらからともなく、まるで示し合わせたようにお互いの写真を手紙に添えてくる…。やがて、人生の話題になったり、或いは手紙で論争したりと、深いかかわりをしていたと聞く。
だが、決してお互いの住む場所に突然出向いたりはしない。最低限の社会性を守っていたようである。

相手の誕生日には、手紙と一緒に贈り物を届ける。記念日には、またそれなりの贈り物を届けたという。
手紙を書く時間を作った。どんな形の封筒にしようか、便箋はどんな色にしようか、切手の貼る位置はここでいいだろうか…と、気を配る。
もし、そうだったとしたら、なんと楽しいゲームではあるまいか…。
その実例が、女優のパトリック キァンベルと作家バーナード ショウの「手紙関係」だろう。ふたりは、生涯、会うことをしなかった。
それが、文通の基本的ルールだったからであり、そのルールを守ることが、文通の楽しみを継続出来る方法であることを承知していたからだろう。

会うことをはじめから、削除していたからこそ、ふたりは生涯素晴らしい手紙文を書き続けられたのだろう…。

もちろん、昔も文通相手と会うことを望み、それを実行したふたりは数多くいたことだろう。しかし、会う、という現実の直面で、それまで続けていた情感が色あせて、以後の文体は変化する。現実的になる。
やがて、文通が止まってしまう。

E-mail。
現代のゲームだ。出逢いも簡単、別れも簡単。ポストまで歩く手間がない。コントロールキーとエンターキーを同時に押せば、一瞬にして全世界の個人宛に届く。切手も不要であり、ペンもいらない。なんと便利になったことか。
絵文字というのがある。顔文字というのもある。この記号文字を適当に使い分けて、文章にしてみるのも、E-mailならではの楽しみ方だ。写真も手軽に転送でき、音も付けられる。文面自体も、昔とはだいぶ違っている。
目的も、文通相手とは限っていない。恋人探しを含め、出逢いを求めて多彩だ。ただの暇つぶし、という人だっているだろう。

手紙_e0013640_554251.jpg
しかし、ルールは昔も今も変わらない、と思う。
社会性であり、この手段を使う個人の人生観が昔の文通同様やはりその文面に顕れている、ということだ。
もうひとつ、昔に比べて、知らない相手に簡単にメールを送れるから、相手からの信頼は薄い。正しいアドレスを知らせずに、勝手にハンドルネームを作るのも、その現れだろう。自分の住所を、E-mailだけの相手に知らせるのは、その文面から信頼を得なければ出来まい。

いや、E-mailに限っていないかもしれない。
葉書一枚書くのに、下書きまでしていた昔の時代に比べて、現代はもしかしたら…人と人との関係に信頼が薄くなってしまったのかもしれない。
人との関係に、手間をかける楽しみ方が少なくなった気がするのだが…。


…まさみ…
by masami-ny55 | 2005-07-13 05:07 | 日記


東京の日常生活と、仲間たちとの交遊録


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