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浪 静か…

ロシアのバルチック艦隊を見つけたとき、真之が大本営にこう打電した。

敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ
聯合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス。
本日 天気晴朗ナレドモ 浪高シ

と、冷静に的確にこれからの行動を報告したが…。
真之は勝利は不可能とされた日本海海戦において、圧勝して、生きて返ってきた。
親友の子規はその年にはすでにいない…。

いよいよ、ボクの決戦日が決定!
明日、月曜日早朝7:00病室で検査。8:30手術室にて「肝臓がん」摘出手術。45%を摘出するとの報告だが、その戦いの中で「敵・がん」を新たに発見次第これを撃滅せんとの作戦はすでに聞く。
今日、さらに「新たなる敵」を発見との報告も聞く。それは、胆嚢(たんのう)に、胆石が多数あり、とのこと。医師によれば「不幸中の幸い。万が一にもこの中の胆石が胆嚢の管にこぼれていたとしたら…大変なことになっていた」と。

そして、医師は力強くボクに宣言する。

「ついでです、胆嚢も削除します!」との、頼もしき報告。
「撃滅! 存分に!」と、答えようとしたが、チャンバラごっこみたいになるので、
「お願い致チます」と、少年のようにさわやかでどこか恥ずかしさを残して、軽く会釈しながらそう応えた。満点の返事のしかただろう。

まさしく、我の身体は、刻一刻と、戦いを続けるほどに「新身体」になっていく…ぞぉ。


明日の月曜日、集中治療室なる部屋で独り、一夜を明かすとのこと。寂しさを感じたら、生きている証。
だが、戦いは明日で終わるのでない。その後の戦いこそ、「生きるすべての戦い」なのだ!

食する、排出、呼吸、血液の流れ、心拍数、白血球の値、視力、聴力、身体の運動などなど…その後の戦いは枚挙にいとまがない。
「しばらくは、なんらかの点滴が身体に付いているので、その間当分はこちらの指示通りに…」

と、春日局みたいなことを平気で言うここの看護婦ちゃん。その出で立ちは、ピンク…。なぜか、全員が容姿端麗…揃い! この辺がここ順天堂病院の人気の原因なのか…「鶴の恩返し」の「鶴」みたいな、きれいだけど影がありそう…消極的っぽい、みたいな人はいない。実に、おやさしい…のよ。
そのうちの何人かのご婦人にはすでに、「付け届け」は、すませた。そこはぬかりない。

削除しても臓器の切れ口から「毒の液体」が流れ出る由。これをクダをつけて体外に放出する。
傷が凄い。
ミゾうちからおへそまで垂直に30センチ、そこから直角に右に30センチ斬る。
そして、肋骨の下にある肝臓のバイキンたちを我ら順天堂病院の外科医チームが全軍でこれを叩く。総指揮官は、膵臓外科では天下にその名を轟かせておられる…なんだっけ、ホラ…川崎先生でしょ!…が、自らボクの戦いに参戦してくださる。と、本日、確認する。
なんと、川崎先生がお一人で、ボクのベッドに朝方来られて、
「では、明日…」
「ハイ、よろしく…」
挨拶こそ短いが、このことばに両人の決意が込められていた。

体内に潜むすべての「バイキン」を叩く。撃滅せんとす!
もし、勝っていたら…
ボクの指が今のような動作が出来るのなら…
来週の金曜日には…再びこのブログに新たなる記事が載ることだろう…。


…まさみ…
by masami-ny55 | 2014-06-29 12:39 | 日記

友達からの便り

ラッセルご夫婦が見舞いに来てくれた。
マキちゃんが今日、突然「(奥さんの)妙子も一緒に窺います」と言ってきたから楽しみに待っていた。そう思っていたら、おやおや懐かしいご主人・ラッセルも一緒。うれしい再会だ。

うれしくなった…。
羊羹とクッキーを頂いた。なんでも、サンフランシスコのの郊外に建てたプール付きの我が家は、無事に完成したようだが、日本で仕事をすることにしたので、住まないまま、売りに出したそうだ。

くやしいから、見ない…!

あらあら…。
日本での仕事は最低三年間になる、と言う…。

元気そう!

と、言ってくれる。なによりも、うれしいことばだ。
言われた分だけ、ボクはまた「元気」になってしまう…。

頑張って!

と、ラッセル夫婦は帰り際にそう言ってくれた。

ああ、頑張るよ! と、ボクは言う。
友達は、何年経っても、そして、太平洋を挟んた遠い国に住んでいても、5年ぶりに会おうとも、友達感覚は薄らぐことはない。

本日、ついに手術の日が言い渡された…。
そして明日もまた今日以上の検査が午前から始まる…

いま、岡田君が電話をくれた。明日、検査が済んだ午後に来る。きっと明日は舞台の話になる…。

ここは都内でも有名な病院で、まわりはボクと同じ「がん患者」だけ。
こんな場所にいると、ついつい子規を想う…。
ボクが子規の名前を口にするとは、学生時代の自分には想いもしなかったことだ。あの頃は、「愛」だの、「情熱」だのと騒いでいただけだったから。それだけボクも、歳を重ね、生きること自体がすばらしいことを知る。親が他界し、友が他界した…このボクの現実の人生のなかで。
子規の交友録がボクにはおもしろく感じる。夏目漱石も「漱石」とのペンネームは子規から貰った。

子規と漱石といえば…、ボクは勝手に歴史を見ているけれど、漱石にとって子規は「命の恩人」だと想う。もっとも、漱石自身がそう思っているかは別だが…。もし、子規が死んだ後にしても「ホトトギス」が廃刊になっていたら、「吾輩は猫である」はこの世に生まれていなかったかも知れない…。
子規は漱石の文才を一番始めに見抜いた人ではなかったろうか…と、ボクは想っている。

e0013640_22252436.jpg子規が漱石に手紙を送っているが、その手紙を漱石は子規の死後10年も放置して、ようやく表具屋に、懸物にしてもらっている。
そこには、

東菊 活けて置きけり 火の国に 住みける君の 帰り来るがね

の、一句と「画」が描かれてあった。
描かれた「画」の論評をくどくどしく綴る…。明治45年、と言えば漱石はすでに世間から大文豪、の肩書きを頂いていたことだろう。子規と出逢った頃のような貧弱さもひ弱さも癒えて、堂々とした感じになっていただろう…。

ボクは想う、このくどくどしい論評に、どこか漱石の「あわれさ」を感じる。子規の創作力には到底自分は及ばない、という自覚を見抜かれまいとする「現世・東大坊っちゃん」によく似ていた強がりに感じる。漱石が手にしているその手紙に書かれた「和歌」と「画」は、子規がこの世に残した「写実」である。「写実」を言い始めた人は、明治の若者・子規だったし、実践してのもまた、子規自身である。おそらく子規にとっては「愛」だの「恋」だの…は、写実の世界から離れた「飾り物」であったに違いない…。
愛と慈悲は違いすぎる…。

「のぼる、ありがとう」「忘れてたけど、飾ることにしたよ」
と、素直に書けばいいのに…とボクは想う。

子規の前に、漱石が百万いても、子規独りの「光」にはかなうまい。
子規の前に、与謝野晶子たちが百万群がろうとも、子規の「美」にはかなうまい。
子規の前にいるのは、子規の「友」である真之と妹・律が居る…


…まさみ…
by masami-ny55 | 2014-06-25 22:07 | 日記

子規と律さん

仰臥漫録(ぎょうがまんろく)は正岡子規の闘病記だ。
人が生きるとはどんな姿か…を、これほど真正面から実践した人はいない。それをありのまま書き残した人もまた、いない。

ボクにとっての子規は、避けてきた人、だった。青春真っ只中の頃。もっとも無知で自意識過剰時代、青春…。その頃はだいたいの若者は異性がどうこうした、なんて物語を実践してしまう。愛こそすべて、みたいな勘違いの生き方を「善し」と思いがちだ…。なので、病気と闘った文人の書には、さほど魅力すら感じなかったし、じつは怖かった。うかつに「命」を論じる知恵もない…。

しかし、人生の歳を重ねたいま、子規はボクにとって「生きる豪傑」「生きる教師」「生きる手本」です。子規の前では、史上のいかなる豪傑、武将でもひれ伏すしかない。これほど生きる力を見せつけてくれた人は後にも先にも子規ひとりだけだ。子規の書き残したモノは、文芸作品などと曖昧な言い方では位置づけられない。ズバリ、生きる教材、だろう。男気、希望、友情、夢、旅、出逢いと別れ、希望と絶望、歓喜と落胆…すべて色濃く描いたし、また子規は事実、そう生き抜いた。

日本がまだ近代国家としては若かった頃。明治のはじめ、数多くの武人、文人が出たが、ボクにとって、子規はその中でもっとも輝いてみえる。

子規はその生涯で、いちども変えることがなかった志が、あの「写実」である。いやいや、そもそも「写実」とはなにか、を創り、完成させた人だ。現実をあるがまま受容する、ということ。わかるようだが実際は、なかなか難しい。だから習得するのに、時間がかかる。とくに、自分を知識階級と思っている人たちには、とくにそのようである。

子規にとっての観察とは、写実を作り出す手段だった。
目の前にある現実を、あるがまま写し取る…。痛みも、力も、叫びも、悔しさも、喜びも…色も形も、味も香りも…生きているこの世界をすべて、受け入れる。そこには、是非もなく、勝ち負けもなく、支配欲も所有欲もない…。そこにある全部を受け取る。まるで、飛んできた球をそのままキャッチするかのように。

自分の身体が自分では動かせけない床の上の世界が、子規のすべての世界だった。
ちっちゃな布団、そして愛用の地球儀…。

ボクは生きるために、いまこの病院にいる。
退屈する贅沢がある。子規の生き様と比べたら、ボクのがん病など、取るに足りぬだろう。なんとでもせい、と言う子規の声が聞こえてきそうだ…。

あれだけの病状でありながら、あれだけ自由を謳歌できたのには、訳がある、というのがボクの言い分だ。子規が生涯、あんなにも自由で生き続けられたのは、妹・律のおかげである。これだけは、間違いない、とボクは思う。だから、ボクは律さんが大好きだ。
あんな凄い妹をさずかった子規兄ちゃんがボクは、うらやましい…。できることなら、ボクはこのいまの世で「律」に会いたい。
…律。とってもとっても、不思議な女性、律さん。

子規が生きた時代には、まだペニシリンという特効薬がなかった時代だったから、子規の身体は結核菌に犯され、首、腹、尻などから膿が皮膚を切り裂き、破裂して穴が空いた。痛い、という範囲はもうとっくに超えている。その痛みから子規は、無念さと、悔しさ…あらやる「毒」を体験したむことだろう。
子規は痛みを我慢なんかしなかった。怒鳴り声を上げてうめき、叫んだ。痛みがないとき、俳句と写実画に没頭している…。そして、35歳の若さで世を去ってしまった…。

親友の秋山真之も、49歳の若さで他界した。原因は、盲腸炎である。

結核、盲腸炎…。もし、現代だったらこんなもの、木っ端微塵に粉砕してやる!
それがボクは悔しい…。不治の病、も、時が過ぎれば危険ランクの病から、快復できる病気にランクが下がる。このボクの「がん」もしかり、だ。

子規が居なくなって、漱石が居なくなって、真之が居なくなって、日本はあの頃よりも本当に「豊か」になったのだろうか…。医学は進歩し、明治の頃より人の命が延びている。人はあの若き時代・明治の頃に比べれば、戦さ場に送られることはないし、難病と闘う人々も激減した。

だが、現代日本には「子規」が居ないし、「真之」も「漱石」も居ない。
まして、ボクがあこがれる人・「律さん」の影は、もうどこにも見当たらない。探しようもない…。

あの時代よりも、ボクの生きている時代では、人は生きている時間が長い。
でも、明治の若者たちが命を賭けてまで望んだ「豊かな国」になっているのか…

戦いのない、だれもが「自由」を謳歌する「平らな世界」になったのか…。

律さん、まだまだボクは生きてみますので、頑張れ、と声を掛け続けて下さいね。


…まさみ…
by masami-ny55 | 2014-06-24 21:19 | 日記

明治の青春とボクたちの青春

「これ、戦闘服です。ガンバって行ってきてください! 絶対に元気で戻ってきてください!」
まるで、旅順攻囲戦にでも参戦するかのように仰々しい。
戦闘服、と言って手渡してくれたけれど、中身は「パジャマ」。要は、「肝臓がん」の手術を無事に終わらせて、元気で戻ってきてくださいよ、ということなのです。

e0013640_17332155.jpgこんな芝居じみた事をしたのは、旧友の小倉一郎君です。
小倉君といえば、テレビドラマ「俺たちの朝」で多くの人たちに知られていますが、彼の代表作のほとんどは映画です。
市川崑監督の「股旅」、吾輩は猫である(1975年、東宝)、真田幸村の謀略(1979年、東映)、天城越え(1983年、松竹)など数多いけれど、ボクはなんといっても、深作欣二監督作品の「仁義なき戦い- 頂上作戦」(1974年、東映)をあげます…。
小倉君は、青春ドラマの名脇役として未だに多くの人たちに記憶されていますが、本来は映画人なのです。
そんな彼とはもう、ん10年のつきあいになりました。
ボクがまだ学生時代、いまの朝日テレビ(旧NET)でFDのバイトをしていたときに出逢ったのが小倉君だった。彼はまだあの頃、高校生だった…。ボクが芸術学部だと知ると、彼は妙にボクになついた。そのはずで、芸術学部の附属高校に江古田高校があり、そこの学生が小倉君だった。ところが、例の全共闘時代だったので、学園紛争に巻き込まれて江古田高校は廃校になった…。先輩として、小倉君たちにはなんと謝罪したらいいのか…、というボクの青春があるけれど、小倉君はそんなボクの青春時代の2分の1程度は知っているはず。それほどあの頃は仲間たちと様々なことをしていた…。
お金がなかったけれど、大学の機材である18ミリカメラ撮影機で映画を創った。スタジオはすべて学校の設備だ。音響は放送学科の仲間で、音楽はもちろん音楽学科の演奏家たちだった…。
芝居はシェイクスピアの戯曲ばかり狙い撃ちして演出したり…。お金がなかったから食事はせず、100円玉があれば文芸座で映画が見られた…。

バイト料が入ると、みんなで食事に行って騒ぐ。渋谷の自宅には戻らず、オナゴと生活をしていたし…。とにかく、なにをしていたのか、思い返すとゾッとする。世間知らずの青年がただただ懸命に生きた…。人はああいう生活を、きっと、青春、と呼んでくれるのだろうけれど、当事者は心の底から恥ずかしさでいっぱいだ…。

小倉君の事務所でラジオ台本を書く。 自分の台本がラジオ放送されると、おもしろかったけれどそれ以上の感動はわいてこなかった…。

オナゴはボクになにも言わず出て行った。バイト先はテレビ局から撮影所に変わっていた頃だ。そのバイト先にオナゴから厚ぼったい封書が届く…。要するに、さようなら、と書きたかったのだろう…。オナゴはボクとは別れて、サラリーマン編集者と結婚したという。けれど、最近知ったのだが、彼女は「食道がん」で他界した…との報告を聞いた。

若いときからそうだが、ボクは最後の大事な場面になると必ずフられるようになっている。二股を掛けられて、ボクはオナゴから選ばれたためしがなかった…。武蔵美のオナゴも言っていた。その頃のボクは「まさみって友達としては世界一だけど、恋人となると最悪だよね」と。実に明確に言われた。それは、小倉君も知っているし、ボクと一緒にいたあの頃の仲間は全員が知っている…。
フられるたびに、「またですか…」と、呆れられた。

そして、ボクはこんな青春から這い出るつもりで、新聞記者になろうと思った…。
独りよがりの生き方をやめて、世間とともに生きようとおもった。知らない世間を知りたいとも思ったし、知らない人たちと出来るだけ多く出逢いたいとも願った…。いつもいつもおんなじ仲間と、おんなじ話ばかり繰り返している生活をしても自分の成長はないと、はっきりと感じた…。新聞記者ならそれが出来る! と…。

記者生活を始めてから、青春時代の仲間たちとはすっかり縁が切れたようになってしまった。演劇も音楽もなくなって、映画を見る程度になってしまった。渋谷の繁華街から、夜の蝶々が飛び交う銀座に通うことになる…。

あれから…ん10年も経った。ボクが「がん」になったとたん、旧友たちが集まってきた。また、何かを始めたがっているような「殺気」さえ感じてしまう…。相も変わらずみんな、若い。

小倉君はボクの脚本・演出の「ユーガットメール」を知って、「出る!」と言う。
「よし! どんな役でもいいよなッ」と、念を押しておいた。

「坊っちゃんからの手紙」である。
正岡子規と妹・律、その親友が秋山真之。上京して夏目漱石と出会う。10歳年下に与謝野晶子がいた…。全員が明治の「坊っちゃん」であったし、「お嬢様」だった。

写実を俳句に反映させた子規…。思いつくままに…。


柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺

稲の秋 命拾うて もどりけり

君を送りて 思うことあり 蚊帳に泣く

暑い日は 思ひ出せよ ふじの山


e0013640_19442895.jpg懸命に生きた明治の青春群像を、ボクはこの度「描く」ことにしました。
オノコたちとオナゴたちの、痛々しいほど透き通った交友をボクは「明治の歌」と「俳句と和歌」と、そして、いつもの「手紙」で創り出してみますね。

病院で書いているかも…ね。
みんな、見に来てください。ボクの青春を土台にして、明治の若者たちを「描いて」みますから。
小倉君がどんな役を演じるのか…お楽しみに、ね。岡田君との共演があるし、それにほら、そう、恒例の三千代さんの「手紙の朗読」もあるし…。
誰がどんな役回りになっているのか…それを楽しみになさって、何卒、会場までお越し下さいませ。


…まさみ…
by masami-ny55 | 2014-06-19 03:44 | 日記

これが今度の「夏舞台」!

これです。
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by masami-ny55 | 2014-06-09 19:10 | 日記


東京の日常生活と、仲間たちとの交遊録


by masami-ny55

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