「物差し」

ものの数量を測定する場合、数値が必要である。
重さに長さ、時と場所などには、明確な数値がある。数値の絶対差によって、相対関係が生まれる。
「~より長いです、短いです」「~広いです、狭いです」「~大きいです、小さいです」と表現言語が可能になってくる訳だ。「物差し」という基準を理解している人たちには、相対の会話を生みだし、そして平等に理解しあえる。

「物差し」_e0013640_53451100.jpgこの「物差し」つまり、「絶対基準」があるから、人は納得出来る。
約束の時刻に遅れたとか、守れたとか…
予算をオーバーしただの、体重が増えたとか…
もっと広い家に住みたいだの、袖が長いだのと、言葉で表現できる。

この「絶対基準」を活用して、私たちが楽しんでいる中のひとつに、スポーツがある。
時間の長さを競う競技もあれば、長さを競う競技もある。重さを競う試合もあれば、点数を競う競技もある。

このほかに、「ルール」を定めた競技がある。例えば、柔道や相撲、剣道などがそれである。
この面積の範囲以内で、「ルール」に定めた技を使って、「早く結果」を出した方を優勢ポイントと数える、というものだ。「早く結果」を出したからと言っても、「ルール」外だったら、「反則」となり、競技によっては失格になる。明確な基準がある。


ベースボールにしても、サッカーにしてもすべての競技には「ルール」が明確であり、絶対存在なのである。ゲームには、ルールが存在する。

しかし、同じスポーツの中には、少々やっかいなものもある。
スケート競技の中にある「フィギュアスケート」がそれだ。
同じスケート競技のスピードスケートは「時間差」で測定できるから判定が可能だ。スケート靴を履いて競技するホッケーは、競技する範囲面積の中で「得点差」と「時間」がルール上明確であるから、「よりよい結果」を出した側を判別できる。
しかし、「フィギュアスケート」となると、話はやっかいになってくる。

他の競技種目に比べて、「物差し」が不明確なのである。
同競技での「技」は、ルールに従って採点が可能である。時間も測定できる。しかし、「表現力」となると、数値では示すことは出来ない。芸術性、というやっかいな領域にどうすれば「物差し」をあてることが出来るのか、どうすれば「フィギュアスケート」を総合評価できるか、関係者は悩みに悩んだ…。
そして、測定可能な「技術力」と「表現力」を区別して評価することにした。一方、「表現力」や「創作性」といった「芸術性」への評価基準は、「数値では測定できない」との結論を提出したのが近代オリンピックである。

従って、ひとりの人間、もしくは機械を使って測定するのではなく、「複数の人たちの目」を使う「測定方法」というスポーツの世界では奇妙な結論にたどり着いた。国の事情や政治背景を十分に考慮した後で、参加者が納得する人選をして、その人たちがそれぞれの視点で「芸術点」をつけてみる、という方法だ。当初、反対意見もあったようだが、このアイディアを上回るアイディアが出ない…。結局、現代に至るまで「複数の人たちの目」が「物差し」になっている。いまでは、反論する人たちの声は滅多に聞こえてこなくなった。このルールが浸透したのだろう…

ただし、それぞれの審査員たちは、自分たちの評価得点をその場で公表しなければならない。得点表示して、競技者はじめそれを観戦している会場の観客にも明確にすることで、責任をとっている。
「あの国の人は何点だ」と、同時進行で会場に表示するから、競技を見ている人たちにも、「納得」がいくし、反論の矛先もまた明確である。


「物差し」_e0013640_5404998.jpg芸術作品の評価…
表現されたもの…

先日、知人に誘われて「高校演劇」を見に行ってきた。「関東高等学校演劇研究大会」という。
なんでも、この大会で最優秀賞を受賞した高校は、今年の8月京都で行う「全国大会」に出場できるという。まあ、全国大会への登竜門とも解釈できる大会らしい。最近の高校生、どんなものか興味が湧いたこともあり、行ってみた。
会場は埼玉県にある「彩の国さいたま劇場」。財団法人埼玉県芸術文化振興財団が運営している会場である。

入り口で、演目が掲載された小冊子をいただいた。
高校生たちが会場のドアや入り口で観客の相手をしている。こうした会場では必ず見かけるはずの花輪の数々もなく、売店すら閉鎖していた。質素だが、高校生の笑顔の応対にさわやかさを感じた。
いつも見ている商業演劇とは会場の雰囲気がまったく違っていた。
無料である。そして、席は全席自由席だった。

お昼の休憩はおもしろい。
新潟県や長野県からもこの大会に出演する母校を応援する高校生らが、ロビーで、2階で、車座になって座ってお弁当を頬張っていた。みんな、笑顔である…
ふだん、この劇場でこのような行為をしたら、確実に注意されるだろう。しかし、今日は誰ひとりとして彼らを叱りとばす人はいなかった。今日だけは、「ルール」の上で「例外」ということなのだろう…

私も駅前で購入した弁当をロビーに座り込んで、高校生たちと同じ格好で食べた。初めての体験だが、楽しくなってきた。彼らの話し声が聞こえてきた…
「あの学校、舞台装置がいいねえ…」
「脚本に矛盾を感じた…」
「あの人の演技、最高だよ…」
率直な感想が聞こえてくる。

さてさて。肝心の各校の演技だが、これがまた、ビックリした。
アッパーライトに、スポット、ストリッパーライトなどなど、照明は使い放題だった。
私は多少、舞台演出をしたことがあるので、彼らの贅沢さをうらやんだほどである。
挙げ句の果て、スモークまで使い放題ではないか…
私は、ついつい「予算」から見てしまったが、それにしてもこの会場のサービスには感心した。

各校とも、舞台装置の工夫はなかなかの仕上がりだった。高校生だから…と、私は当初、割り引いて鑑賞しなければなるまい…と、覚悟していたのだが、とんでもない。素晴らしい出来映え揃いだ。

また演技も、素晴らしい。正直、このうち何人かは、そのまま商業演劇のキャスティングをしてあげたくなるような高校生もいたほどである。
彼らの演目内容だが、時代を反映してか、ギャグの多いものもあれば、古典もあり、創作作品もあった…

しかし、彼らの今回の出場目的は「全国大会」に行けるか、行けないかを決定する大事な舞台なのである。


「物差し」_e0013640_545633.jpg

そこで私はどんな審査をするのか、大いに気になったので最後までいることにした。そして、私なりの「採点」をして、結果報告を楽しみにしていた…が。

すべての演技が終了した後、休憩を取った。
幕が上がると、審査員5名と進行者が舞台に陣取っていた。
そのうちのひとりが出場した1校を講評している。5分程度だが、同じ話を繰り返す審査員もいたので、長く感じる。なにを言いたいのか、何処が良くて何処が悪かったのかを明確に伝えない。
ほめているのか、おだてているのか…も、理解でない話し方が続いた。こんな話し方で、当事者の高校生たちに伝わるのだろうか、と思った。

そして、長々しい時を経て、ようやく発表だ。
その瞬間だが、私は驚いた、というよりなんだか腹が立ったのである。
進行者が「まず、最優秀校を発表します。その後、優秀校を発表…」
私は「マズイ! そのやり方は」と、心の中で叫んでしまった。

案の定、会場に陣取っていた各校の高校生たちは「最優秀校」を伝えられた後は、「優秀校」の発表を聞いても拍手の音はまばらだった。
それはそうだろう、「最優秀校」の発表が終わってしまえば後の時間は、「選ばれなかった体験」「落とされた体験」が続くのである。見ていて、痛かったのは、私ひとりではあるまい。
優秀校は3校だった。
舞台の上には、大、中、小のトロフィーが並んでいる。
優秀校3校は、ステージに上がりたがらない。優秀校からもれた高校は、まるで「参加賞」でももらいに行くように、小さいトロフィーを手にしても感激の顔色はなかった…

彼ら高校生にとって、「関東大会」出場までの道のりは大変な努力があったと舞台を見れば私とて容易に想像できる。各校とも事情や努力を言ったらきりがないだろう。
が、それは全校一旦棚に上げて、自分たちがたった今演じた芝居がどのような「評価」をされたのか、自分たちの演じた舞台の評価を明確にしたかったはずである。しかし、私の感じたところでは審査員が審査基準を明確にしていないために、各人の審査員の感想だけで決めてしまったように思えた。まさか、こんな選考の仕方を全国の「地区大会」で行っているのだろうか…
観客には、私のような「興味本位」で来た者の他に、きっと学校関係者もいるだろうし、親御さんも見に来ていたはずだ。
大会運営側には、出演した学校の他に、観客に対しても「そうだろうなあ、その結果は…」と審査結果を「納得」させる責任があるのではないか。
要は、「選考基準」となる「物差し」が不明確なのだ。

後味の悪いものを、見せてもらったものだ…

もし私がまだ記者をしていたとしたら、といっても私は経済部の記者だったが…
文化部の記者なら、この点を取材して原稿に起こしていたことだろう。
「高校演劇とは?」と、文化庁の担当者にまず取材する。「選ぶ」以上、基準はなにかを関係者に取材したことだろう。審査員は誰がどんな人選の基準でなされているのか、も取材するだろう。そして、なぜ5人枠の審査員なのか、という数の設定も聞き正したい…

と、思うほどの後味の悪さだった…

「物差し」_e0013640_54031.jpg

もし、こんなことが全国の地域で起きていたとしたら、私は二度と高校演劇なんぞに足を向けたくない。ばかばかしい…のである。こんな痛い体験を「芸術」の中で感じる、とは。
芝居を見終わった後は、人間的な気持ちで会場を後にしたいからである。
演劇以外のまったく別の背景を感じさせたり、運営を批判したくなるような気持ちにはなりたくない。そう思うのは、私ひとりだろうか…。
演劇の世界に高校生を誘導したのなら、なにを以て「高校演劇」というのか、その「物差し」となる「枠組み」を明確に伝えるべきなのではなかろうか。そして、会場で配ったパンフなどにもそのことを明記しておくというような配慮をするとかは、いかがなものだろうか…。
「この基準で審査しますよ」と。
例えば、彼らの舞台には「日本の高校生らしさ」があっていい、と言うような「基準」が見えなかったのが残念でならなかった…
演技者と審査員と、そして観客が一体になれる「基準」がなくては、こうした「大会」は意味を持たない。

おもしろいコメントをここに記録として書き残しておこう。
5人の審査員ひとりが、或る高校をこう講評していた。
「完成度の高い、非の打ち所がない芝居でした」と、舞台の上で伝えておきながら、果たしてその高校は「優秀校」の3席という評価に追いやった… 評価と結果の落差がありすぎた。「これが大人たちのすることなんだ」と、高校演劇生たちが思ったとしたら、それこそなんのための「大会」なのか。高校生たちには、とてもとても理解できまい。
演劇好きの私には、なぜ審査員がこのようなコメントを青年たちの前で平気でするのか、理解できなかったが…。

アメリカの生活が長かったせいか、私はときどき日本の「ルール」の曖昧さが社会全体にも現れているようにさえ感じられる。
眺める世界が、ぼんやりしなければいいのだが…

今回の「高校生の演劇 関東大会」にもそんなことを思いながら、東京まで帰った…

「物差し」_e0013640_5434947.jpg




…まさみ…
by masami-ny55 | 2006-01-17 05:45 | 日記


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