常磐道・日立市へ

東京本郷から常磐道で茨城県日立中央まで、片道200キロ程度の距離を走った。外気温は4Cを指す。12月になったとたん、寒さを実感できる。友だちと会うためだ…。

昼食中に、やっちゃんに「誰か、チャしてくれる相手は居ないのか? 誰でもいいから、さぁ」
茨城県で教諭をしていたやっちゃん。「どこでもいいですか?」
結局、日立市の高校で教師をしているナメちゃんと連絡。「今から行くけど…」
ナメちゃんの友だち、二人と別々の時間で会うことになった。どんな人だぁ…と、ワクワク。スカイラインのガスを満タンにする…。

折角、日立にまで行くのだから太平洋の幸を…と、友だちと会う楽しみとは別に、ご当地の名産を思い浮かべながら運転とした。真っ直ぐ伸びた3車線の道路は閑散としていた。こう言うときこそ遵法で走らないと危険なのだ。若い頃は、湘南方面などでスピード違反ばかり。散々、あのピカッにやられたので、知らない高速道路では遵法に限る。それにしてもこのV36型は燃費効率がいい。G34型に比べたら、実車で倍程度は違う。

4時を過ぎて陽が落ちはじめた。震災後とはいえ、それにしても常磐道は閑散としている。気づいたのだが、今日から水戸から北に走る高速道路は無料だ。災害の影響なのだろうか…。

日立市に入る。
60年代から70年代にかけて貿易立国ニッポンの主役として我が物顔で日本経済を支えた日立製作所の大本陣。その大都市だ。10数年前にも、何度か来たことがあった。
重電メーカーの老舗・日立製作所の「城下町」である。日立駅に着いたのが、午後5時すぎ。すでに太平洋は真っ暗になっている。
繁栄した日立市のメイン通りが太い道路のまま残っていたが、走る車も少ない。日立の心臓部である生産工場は節電のためか、灯火のような薄明かりが残っていただけだった。
モノ造りニッポンがいつの間にか、モノ造りをしなくなった。日立市のかつて繁栄はいま、どこにもその名残さえない。毎晩宴会続きだった70年代の各飲食店は6時だというのに早々と暖簾を外して、店じまいしている。工場側の喫茶店は6時で閉店。…寂しくなった。
これが今の日本産業界なのかと、200キロ走って見た現実の光景に、我慢できなかった。
誰に向けて怒鳴ればいいのか…ただただ、しゃくに障った。
皮肉と言ったら皮肉な話しだが、かつて日本独特の原子力発電メーカーとして世界からも驚嘆のまなざしでその技術力を評価された我が国最高の重電メーカーが、あの「津波」と電気供給会社の後手後手になった事故処理のおかげで、原発廃止へと世論は向けられた…。

モノが造れない、累積した重電の技術力はもはや日本国内で発揮できる機会はなくなった。日立市はいま寂しい街になっていた…。貿易立国日本だったはずの「本拠地」が、これなのだ。

友だちと会って、せめてお刺身料理でも、と気を取り直す。友だちは地元の高校で教師をしている。
数少ない老舗で早速夕食だ。明日から学校では期末試験、だそうだ。すると、そのお店で、友だちは突然でっかい声を張り上げた。なんだ、驚かすな…。
「生徒がバイトしてました」という。
とにかく、ご飯をおかわりまでして「お刺身」と「天ぷら」をいただく。ボクは天ぷらはお塩でいただくのがクセで、どの店でもそうしている。

今週はスカイラインが大活躍してくれた。クルマで北陸、越後、日立、そして、柏と草加と走った。
人と出逢う。記者時代とは違って、原稿にまとめる必要がないが、それでも記憶にとどめる出逢いがある。日々、あちこちの街を行き、人と出逢って話しをする。なんと、楽しいことか。



…まさみ…
by masami-ny55 | 2011-12-03 01:44 | 日記


東京の日常生活と、仲間たちとの交遊録


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