今年の夏がきたら自作の音楽劇を公演します。いつも劇場で行う予定ですが、なにせ抽選なので日程が確定するのは2月にならないとはっきりしません。
今回で、10回目。年に一度ですから今年で十年目を迎えます。ところでこの音楽劇ですが、始めたきっかけはニューヨークに住んでいるピアニストとのメール交換でした。最近はなくなったようですが、e-mailでの「文通」です。ですから、お互いに会うことを前提にはしていません。むしろ、会わない相手と「PCを使った文通」ということになります。ところがこのピアニストのコンサートを見に行ったことから話しが急転して、ジョイントコンサートを創ることになったのです。なので、コンサートのタイトルを「ユーガットメール」としました。1回限りで終わるつもりでしたが、結構好評でしたから調子に乗って「じゃあ来年もやりましょう」と約束。翌年、小さいホールではなくて300人以上入るちゃんとした劇場を用意しました。ところが、本番直前でピアニストはNYに帰ってしまいました…。大騒ぎの結果、ようやくピアニストと出会って、第2回が出来、3回目からはピアニストはこの時であったピアニストに落ち着きました。
コンサートは落ち着いたのですが、ボク個人のモヤモヤ感は尾を引いたまま。そこで新たに「文通相手」を探してみました。様々な方がいました。すると…、簡単な自己紹介がされています。その文章を読んでみればある程度の人柄は伝わります。
その中の一人にハンドルネーム「空飛ぶブタ」がいたのです。
絶対にデブですよ、絶対。絶対に楽しい人ですよ、絶対。絶対にネアカでオッチョコチョイですよ、絶対。
と、思う反面、気が触れているかも…ヘンな人もいるからなあ…まあ、ヘンテコリンだったら返信しなくていいし、と軽く考えて、まずはそれなりの手紙を出してみました。返信はきっちりとした文章で綴られていました。ブーブーちゃんにしてはずいぶんお上品な文章を書くなあ…と感心しちゃたのです。で、「会うことがない文通相手」ですから、とお互いのルールを決めてスタートしました…。
今年でふたりのメール交換はおよそ十年間続きました。
最近ではふたりともなにか特別なことがあったときに、想い出したように書きあう程度ですが、十年間では、メールで言い合いもしました。ケンカになったこともありました。その都度、手紙文って難しいと思い知らされたものです。スタートした頃は一日に4通の日もありました。住所も知り実際の肉筆での手紙も交換しました…。「空飛ぶブタ」のメールからヒントをもらって、許可を取って、メールの文面を台本に使ったこともありました。
ブタさんは韓国の大学で日本語の教師をしています。「ことばの世界」では、ボク同様大変関心の深い人です。そんな共通性がこれだけ長い間、メール交換が続いた理由のひとつだと思います。
ブログの楽しさを教えてもらったのも実は「空飛ぶブタ」です。ブログがなにかをボクは知らなかったし、関心もなかった。そして、韓国ドラマを覚えたのも、「ブタさん」のおかげです。韓国という国に関心を持つようになったのは明らかに「ブタさん」のおかげなのです。それまで韓国はボクにとって、遠い国でしかなかったから…。韓国の徴兵制度と青年像を紹介してもらったり、韓国の平均的生活ぶりも教えてもらいました。韓国という国が身近に感じてきたのもまた、「ブタさん」のおかげです。
会うことはない「ブタさん」と、遠い国だった韓国…。
しかし、人生って思わぬ方向に向うことがあります。
ボクは十年間のメールで、仕事のこととプライベートは書かないままにしていましたから、「ブタさん」は「まさみさんって、どんな人なのか、一体どこでなにをしている人なのか知らなかった」のです。このミステリアスな関係が「メル友関係」として、ボクには丁度いいバランスだったのですが…。
ところがある日のこと、「ボクの夢」を書いたときでした。自分の仕事を初めて「ブタさん」に書かなくてはいけないことになったのです。そこで、自分の仕事のサイトを転送したのです。
それを読んだ「ブタさん」は、「学生を紹介するのなら、私が参加してみて体験してみないと力が入りませんから」と、ボクの仕事に大変な関心を示したのです。で、わざわざ韓国からボクの授業に参加しに来られました…。会うはずのない「メル友」がおよそ十年の歳月を経てはじめて出逢いました。しかもその場所はボクの「夢」の詰まっているボクの教室で。
やりにくかった、今回の授業は…。
韓国はその昔、ずっとずっと大昔。大和の国に大陸の文化を伝えてくれた。「漢字」という「当時のコンピュータ」もまた、韓国経由で大和の国に伝承されているとか…。現代韓国ではもはや「ハングル文字」という発音記号で綴られることが多く、「漢字」を見かけることは少なくなったとか。ハングル文字はその昔15世紀の韓国王朝が創ったものと聞くが、日本語と文法が似ているのは興味深い。現代韓国はキリスト教とはいえ、まだまだ儒教精神が実生活を支えているようにボクには見える。その儒教精神は現代日本の実生活にも共通してはいないだろうか…とさえ、ボクには思えるのです。年功序列の精神と縦割り人事の徹底ぶり。男女の明確な人生観の違いや、個人的誇りを大切にする生き方などなど…。昔々お世話になったであろうこの国にボクはボクなりに「夢」を描いた。ボクが見つけ出した「言語世界」を持ち込んでみようと。ボクの尊敬する白川静先生でさえ、研究の土台は「漢字の精神」だった。ことば、そのものだ。
ダメかも知れないが、ボクはまだまだ、このまま旅を続けようと思う…。
「ブタさん」は、まったく新しくなった授業に参加した。ここまで授業内容を改革するのにはボクは、ずいぶん失敗を繰り返してきた。そのたびに訂正を加えてきた。十年前と今の授業はテーマすら違っているほどだ。この授業が終わると直ぐに「創作コース」に申し込みをした。しかも、授業料までその場で済ませてしまうのです。
ということは、ボクはもはや後には引けない。「ブタさん」が創作コースに参加すると言うことは、韓国で「創作コース」を実施する必要が生じる。たったひとりの参加者のためにボクはかつて姫路、京都、新潟、仙台などにも出かけたことがあった。韓国でも同じことだ。さいわい運賃も国内の旅と比べて、大差はない。
今年、ボクの授業が韓国で行われる「夢」を描く。韓国の学生たちと話しをしてみたい。彼らの「夢」を聞いてみたいではないか。「ことばの世界」がどこまで広がりを持つか、そんなことを思うだけでも、ボクは自分の「夢」が限りなくひろがっていく。まるで大空を飛ぶが如くに…。
ただの「メル友」だった「空飛ぶブタさん」が、ボクの「夢」を一緒になって飛ばしてくれることになるなんて…。こんなことって、人生でそうそうあることではないでしょう。
…まさみ…
おもしろかった…。
劇団AUN「十二夜」を初日に見た。学生時代からボクは初日の舞台は避けることにしているのですが、仕事の関係でどうしても初日に伺うことになった。赤坂にある小さな劇場で、他の劇団も使っているからよくここにはお邪魔している。用意してくれた席はなんとまあ、どセンター。初日の舞台でこの席で…。
三時間の公演はあっという間に過ぎていく…。笑いと緊張感のメリハリが小気味よかった。
大人の笑いが自然と出てくる舞台は、いまどきそうはあるまい。横田栄司さんのトービーには引き込まれた…。横田さんのあの独特の「声」と「台詞回し」は天下無敵だろうとさえ思わせる。舞台上が少々賑わっているハイテンポな台詞続きの場面ではあえて、のんびりとそして静かに台詞をまわしていく。
この横田さんを引き立てているのが、アンドルーの長谷川志さん。長谷川さんの道化ぶりもまたこれはこれは、天下無敵。天下無敵が二人揃ったら、こういう舞台が出来上がります。お見事!
ラスト間近で、林蘭ちゃんに思いっきり手打ちまでくらう長谷川さん…。道化が観客にちゃんと同情さえされてしまうあたり、もうこれはこれは、天下無敵のアンドルーが仕上がっています。
蘭ちゃんと言えば我が「ユーガットメール」のレギュラー女優様。テンションの高さは当代随一の女優。その彼女がなぜか慎ましやかなオリヴィアに扮して登場。見ていてこちらが気恥ずかしくなりましたが…。楚々とした振る舞いのオリヴィアのはずが徐々に「蘭ちゃん節オリヴィア」へ突入していきます…。ご本人はボクに、「超二枚目をやります」とおっしゃっていたのですが、やはりそこはそれ蘭ちゃん。自分流が天下無敵の立ち位置。宝塚の大女優・安寿ミラさんを向こうに回しての相手役。凄まじい女対決の場面では大女優の風格そのものでした…。
なんというか、最近のテレビはこんなドラマをやってくれない時代です。昔、「上方漫才」といいましたが、そうとは言わずに、「お笑い芸人」のおしゃべり番組が目立ちます。どのチャンネルでも「上方」ではなくて(失礼!)、「関西弁」だらけ。なので、役者さん達の芝居が見たければ、こうして芝居小屋に出向かなければならない時代になった。蜷川先生がシェイクスピアの悲劇がお好きなようですが、一方ここ劇団AUNは喜劇を追いかけています。
今日、四日間の出張から戻って職場での仕事が早く気の上がったので、また「十二夜」を見てきました。
落ち着いて笑える大人の舞台だと、改めてそう感じます。
吉田鋼太郎先生の「偽手紙誤解の場面」では、ハンカチを用意しておかないとエライ目に遭います…。悲しいから涙が出るのではなくて、おかしすぎて泣けてくるのです。ここまでやるのか、吉田先生!と。
今日、チャッカリと沢海陽子さんのサインをいただいちゃったのです。彼女のセバスチャン、可愛くて、しかも印象的。ボク好みの女優さんなのです。
坂田周子さんのマライヤがまた、ほれ、天下無敵のスットンキョウです。テンションが絶対に落ちない。早口での台詞まわしは、さすが劇団AUNの女優です。妙にカワイイのですよ、この人。
で、職場の仲間たちと帰りの地下鉄で話したことは、ボクの大好きな「ヘンリー五世」を是非是非劇団AUNで公演して欲しい、と…。チャンバラが子供時代から大好きで、東映映画ばかり見てましたから…。
4幕3場「セントクリスピンの演説」を、どうでしょう、横田栄司様、おやりになってみては…。お似合いだと存じますが。宿敵フランス軍の大将には劇団AUNの主幹である吉田鋼太郎先生に…。
そんな「夢」まで見させてくれた舞台でした。
…まさみ…
年が明けて、平成24年。辰の年になった。
だから、いちいちやることなすことに「お初」がつきまとう。ここ1週間程度はこの「初物」で気分を新たに出来るというものだ。
まずは、恒例の日光東照宮に初詣して、いつもの山のレストランで初のランチ。輪王寺でおみくじを引いたら、「大吉」。
ところで今日のこと。初めての体験をした。都会ッ子のボクが生まれて初めて「精米」をした。栃木の田舎に家を建ててしまったので、仕方がないが近くの人から30キロの玄米を精米して欲しいと頼まれた。
「精米ってなに?」
機械があるから100円玉を入れれば出来る、と簡単に言う。分厚い紙袋に入った玄米はなかなか持ちにくい。重たくて、手に食い込んで痛みが伴う。考えたあげく、抱きかかえてみた。なんとか玄米30キロを抱きかかえられた。クルマのトランクに載せて、畑の横に建つ「精米室」へ。
やり方はイラストにして精米器の横に描いてあった。その手順に従ってみると…。
まず30キロの玄米を一気に精米口に開けるのだが、これが案外難しい。100円が10キロと描いてあるので、失敗したらまずいので、200円を入れた。ボタンを押したらもの凄い音と多少の振動が狭いプレハブに響き渡る。ちと、こわい…。
「ヌカも持ってきてくれ」
とも言われたので、ヌカが必要な場合はこのボタンを押せ、とイラストにある。なので、押したらヌカは出てこない。いつまで経っても出ない…。なぜでない?と考えている間に、玄米がもの凄い勢いで「白米」に精米されていく。
どこを押せば袋に戻るのか…イラストを見直す。足下にペダルがあった。ペダルを踏んでみたら、どさぁ~と白米がこぼれる。ヤバい。落ちる口がわかったので、そこに紙袋をあてがってから、ペダルを踏む。白米は袋に落ちていく…。
しかし、ヌカがまだでない。ここから出てくるはずだが…と、手を突っ込んでみたら口に詰まってた。手を入れたら、粉末状になったヌカがこぼれ落ちた。出来た。
ヌカも大量に出来たが、疑問があったので届けたときに訊いてみた。
「このヌカ、なにに使うの?」
すると、ぬか漬けに使ったり、畑の肥料にもなるというのだ。えっ、ぬか漬けってこれを使うんですか?
うそっ!
ボクはいまのいままで知らなかった。都会ッ子だからではなくて、ボクがひどすぎる。ぬか漬けのヌカと、今日のヌカとは別物と思っていた…。
こうやってお米が出来ていくんだ、と体験できただけでも、とにかく、楽しかった。で、早速電気屋さんに行った。電気釜を購入するためだ。そしたらいろいろと、取り揃えてある。1万円以下から始まって、なんと10万円クラスまで。圧力ナントカ…、などなど。「ふつうのヤツで…」「そう言われましても…どうなさいますか?」
たかが電気釜と思うなかれ。これだけの中でいろいろ説明されたら、どうすることも出来ない。
んーー、東芝は母親の時代だし…、パナは松下かぁ…、象印にタイガー…魔法瓶じゃなかったのかぁ…、んーー、どれにしようか…。IHのなんとか…に決めたら、1万円程度だった。
精米したてのお米をこの電気釜で炊いてみた。いやいや、いや。美味美味、大変に美味しい。長嶋さんの納豆が届いていたので、それと海苔で食べた。「日本をしている」って感じだった。自分で精米して、自分で炊いて食べたご飯って、生まれて初めて。初物揃いの新年とはいえ、この体験はそうそう、できるものではあるまい。
…まさみ…
東京本郷から常磐道で茨城県日立中央まで、片道200キロ程度の距離を走った。外気温は4Cを指す。12月になったとたん、寒さを実感できる。友だちと会うためだ…。
昼食中に、やっちゃんに「誰か、チャしてくれる相手は居ないのか? 誰でもいいから、さぁ」
茨城県で教諭をしていたやっちゃん。「どこでもいいですか?」
結局、日立市の高校で教師をしているナメちゃんと連絡。「今から行くけど…」
ナメちゃんの友だち、二人と別々の時間で会うことになった。どんな人だぁ…と、ワクワク。スカイラインのガスを満タンにする…。
折角、日立にまで行くのだから太平洋の幸を…と、友だちと会う楽しみとは別に、ご当地の名産を思い浮かべながら運転とした。真っ直ぐ伸びた3車線の道路は閑散としていた。こう言うときこそ遵法で走らないと危険なのだ。若い頃は、湘南方面などでスピード違反ばかり。散々、あのピカッにやられたので、知らない高速道路では遵法に限る。それにしてもこのV36型は燃費効率がいい。G34型に比べたら、実車で倍程度は違う。
4時を過ぎて陽が落ちはじめた。震災後とはいえ、それにしても常磐道は閑散としている。気づいたのだが、今日から水戸から北に走る高速道路は無料だ。災害の影響なのだろうか…。
日立市に入る。
60年代から70年代にかけて貿易立国ニッポンの主役として我が物顔で日本経済を支えた日立製作所の大本陣。その大都市だ。10数年前にも、何度か来たことがあった。
重電メーカーの老舗・日立製作所の「城下町」である。日立駅に着いたのが、午後5時すぎ。すでに太平洋は真っ暗になっている。
繁栄した日立市のメイン通りが太い道路のまま残っていたが、走る車も少ない。日立の心臓部である生産工場は節電のためか、灯火のような薄明かりが残っていただけだった。
モノ造りニッポンがいつの間にか、モノ造りをしなくなった。日立市のかつて繁栄はいま、どこにもその名残さえない。毎晩宴会続きだった70年代の各飲食店は6時だというのに早々と暖簾を外して、店じまいしている。工場側の喫茶店は6時で閉店。…寂しくなった。
これが今の日本産業界なのかと、200キロ走って見た現実の光景に、我慢できなかった。
誰に向けて怒鳴ればいいのか…ただただ、しゃくに障った。
皮肉と言ったら皮肉な話しだが、かつて日本独特の原子力発電メーカーとして世界からも驚嘆のまなざしでその技術力を評価された我が国最高の重電メーカーが、あの「津波」と電気供給会社の後手後手になった事故処理のおかげで、原発廃止へと世論は向けられた…。
モノが造れない、累積した重電の技術力はもはや日本国内で発揮できる機会はなくなった。日立市はいま寂しい街になっていた…。貿易立国日本だったはずの「本拠地」が、これなのだ。
友だちと会って、せめてお刺身料理でも、と気を取り直す。友だちは地元の高校で教師をしている。
数少ない老舗で早速夕食だ。明日から学校では期末試験、だそうだ。すると、そのお店で、友だちは突然でっかい声を張り上げた。なんだ、驚かすな…。
「生徒がバイトしてました」という。
とにかく、ご飯をおかわりまでして「お刺身」と「天ぷら」をいただく。ボクは天ぷらはお塩でいただくのがクセで、どの店でもそうしている。
今週はスカイラインが大活躍してくれた。クルマで北陸、越後、日立、そして、柏と草加と走った。
人と出逢う。記者時代とは違って、原稿にまとめる必要がないが、それでも記憶にとどめる出逢いがある。日々、あちこちの街を行き、人と出逢って話しをする。なんと、楽しいことか。
…まさみ…
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が 白くなった…とは、いかなかった。
今日、ボクにとっては早朝の8時30分に板橋のアパートを出で、新潟に向かった。
新潟とは言っても、山陸の雪深い十日町などの飯山線沿線ではなく、ボクには北陸のイメージが強い直江津への旅だ。新潟県にはその昔、越後と呼ばれていたけれど、ボクにとって直江津は北陸のイメージ強い。日本海の荒波を渡って海の幸を陸揚げする男性的な漁港との印象だ…。
それでも都会育ちのボクには、新潟は「清水トンネル」を抜けて行くので、確かに「雪国」というイメージはある。だから、このまま普段通りのスカイラインで突っ走ってもいいものか、という懸念はある。でも、相手はボクがクルマで行くことを知っていてもそのことに関してなにも言わなかったので、そのまま運転することにした。
練馬から「関越道」でいく。途中、日本最長の「関越トンネル」を通る。10キロ以上はある。学生時代の夏に散々登った八ヶ岳を、くりぬいたトンネルとして話題なったがその事実がボクには当時ピンとこなかった。「八をくりぬくなんて、ひでなぁ」と思ったことを覚えている。まあ、とにかく日本の技術力には関心したが…。
そして今日、その長いトンネルを抜けたら、「雪国」はまだなかった。
11月末だというのに関越道の路面は平常だった。スキー場には裸のロープウェイがそのまま動かずに長く伸びていただけだ。だが、遠く見える山々は真っ白に雪をいただいていた。冬の空が透き通り、眩しい。
藤岡から左に折れて「上信越道」に入り、そのまま上越方面の「北陸道」を走り続けた。
上越に着いたら、友だちが待っいた。
「お疲れ様でした」
「めし」
「そうしましょう」
目指すは直江津港の魚たち。直江津駅前の道にはシッターが下りたままの店が続く。かつての繁栄の名残だろうか。港にも漁船は少ない…。なんだか川端先生の物語よりも、清張さんのイメージになった。まあ、いいそんなことは。
さすがです、地元の小料理屋さんに案内してくれましたが、ボクが手洗いで歯を磨いたり、顔を洗っている間にヤッコさんはすでに「お刺身」を注文済みでした。ボクは東京感覚だったので、「刺身か…盛りつけは派手だがどうせ少しだろう」との考えがよぎって、「なんか、喰うか」とメニューを見た。
見たが、すごい。なにがスゴイかって、お膳物の質と量だ。更には、東京育ちのボクから見たら、このお料理の数々は明からに2000円以下では永遠に食べられない超贅沢三昧。品は書かない。すごすぎた。ふだんさほど食べないカナちゃんは「お魚には目がない」が、「きゃあ、スげぇこれ」と歓声に近い悲鳴を上げながら、地元の高級魚白身魚の10品お刺身は元よりのこと、あれよあれよという間にほぼ完食状態。
1品料理で「蟹みそクリームコロッケ」と言うが目に留まった。それを2個注文。「蟹クリーム」ではない、「蟹みそクリーム」という書き方に興味が湧く。ハンバーグ大の大きさだ。いただいたら、中身は全部蟹さんだらけ。贅沢この上なしの1品。たったの500円。これ、もちろん実話だ。
とにかく、1人前のお膳料理をいただいたら、他は注文しても食べきれない。なので、いろいろ食べてみたい人は、10人とか、20人で行くべきだ。シェアした方がいい。
お刺身の包丁の入れ方が違うのだ、伝統ある港街のこと、男性的です。都会の2切れが1切れになっていましたから。
「次は?」
「風呂だろ、聞くなよそんな当たり前のことは」
「だろうと思いまして、すでに手配ずみです」
直江津の天然温泉へ。手ぶらで行く。
390円ということは、東京の銭湯よりもお安い。
いい温泉だった…。
「次は、茶ですか?」
「そういうこと」
直江津最大のホテル、そのレストランへ向かった。物静かな高級レストランなので下世話な話しもママならず、珈琲1杯まで。
「また来る、絶対」
「是非是非、お待ちいたしております」
冗談はさておき、友だちの母上様には、至れり尽くせりのご配慮をいただき、感謝でいっぱいだ。
帰りには「こしひかり」までいただいた。
帰りは、上信越道から関越道、首都高板橋まで近道を使った。4時間足らずで到着できた。
絶対にまた行く。この体験を活かして、今度は欠食児童・カッパとチビ丸・オノッチ、美食家・ユウコちゃんに田舎ッペ・ネモコなどを従えて20人程度で行くことにしよう。上越が「雪国」になる前に…。
…まさみ…
久々に栃木の実家に戻った。
温泉に2日間通ったら、体重が2キロ減ったが、これは汗が流れただけのことだ。
映画も見た。ブラッドピットの「マネーボール」だ。見る前に映写時間を確かめたら2時間30分程度だ。ずいぶん長い映画、と思ったがあっという間だった。いい映画だった。
実在する人物を映画にする場合、ほとんどが「過去の物語」をアレンジする台本になる。ところがこの物語は、現在活躍中の人物、オークランド・アスレチックスのゼネラルマネージャーであるビリー・ビーン氏を題材にした台本だ。ここに興味があった。
現在活躍している人物をまさか美化した物語でもなかろうに…。どうしていま、ビリー・ビーン氏をブラピが主演してまで映画にするのか…と、公開前から興味を持った。しかもアスレチックスは大リーグのチームの中ではボストンほどの人気もないし、話題性もないのに、なぜだろう、と。もうひとつの関心事項は松井選手が所属するチーム、と言うこともあるが。
撮影はドキュメントタッチだったので、映像はあえてハイトーンになっていた。
ところどころ実写も交えている。2002年、つい最近とも言えるが、あの20連勝したときのドラマもいま映画にしてふり返ると、確かにもの凄いゲームだった…。今年のワールドシリーズ第6戦に匹敵するドラマチックなゲームだ。今年の第6戦はもうMLBファンにとって「伝説試合」になったが…。ハミルトンのホームランがフイになるとは…。ボクにとって今年2011年MLBのゲーム、として脳裏から消えることはないだろう。まあ、それはいいとして、映画の話に戻ろう。
大リーグでのGMの立場を知るには実にいい台本になっている。アスレチックスGMのビリー・ビーン氏の立場が鮮明に描かれている。監督以上にチームの勝敗には絶対の責任があると言うことだ。ここは日本の野球界とはずいぶん違っているように感じた。最近、東京のチームで内紛があったが、もしそれと同じ事が大リーグで起こったら、それは大変な醜態。というより、まず起こりえないだろう。なぜなら、責任範囲が明確だからだ。
見終わって、ぞっとした。このビリー・ビーン氏が松井秀喜選手に狙いを定めた、ということ。ビリー・ビーン氏に松井選手は大リーガーとして評価されていたんだ、という現実がボクにはやけにうれしくなり、また同時に、エライところに移籍したモンだ、とも思った。昨年、楽天の岩隈投手がアスレチックスに移籍できなかったが、これは日本球界がもっと大リーグ関係者たちとの人的交流の不足が原因ではなかったのか、とさえ思われる。もっと、相手と話し、お互いを知り合っていたら岩隈選手のような悲劇はなかったはずだろう。大リーグの各選手は確かにひとりひとりが株式会社みたいなものだからこそ、話し合いが必要なのだ。それをよくわかっている人物が、GMの重責を担っている。とくに、ビリー・ビーン氏はボストンから当時最高金額の、5年契約1250万ドルという高額のオファーを受けたが、後に断ったほど、大リーグ業務に徹底した考え方の持ち主。
「二度と金によって人生を左右されまいと心に決めたから」というのが、その理由。
それほど大リーグは選手たちに限らず、「お金」がついて回る世界。かつてビリー・ビーン氏もスタンフォード大学の進学が決まっていたのに、お金で大リーグ入りして危うく人生を棒に振るところだった。
もし、松井選手が来季もアスレチックスと契約したら、それはビリー・ビーン氏との契約を意味するなあ、と感じて、是非そうなって欲しいと思った。とにかく、おもしろい映画と久々に出逢った。暇に任せて、韓国ドラマばかり見ていたが、ハリウッド映画はいいです。
…まさみ…
お赤飯を炊いた。
大手術をした同僚が元気になったので、うれしくなった。で、こういうとき世間の風習として全快祝いとかいって、お赤飯を炊く。
それならと、ボクもお赤飯制作に挑戦してみた。
まずはスーパーのおばさんにお赤飯の作り方をその場でいろいろと取材。
とにかく、まずは「もち米」の購入だ。1㎏1パック700円がその日は幸運にも特売日になっていて580円程度だった。失敗する可能性が高いから、3袋買い込む。
次に、「お赤飯の豆」だが…。「小豆(あずき)」と「ささげ」はどっちでもいいよ、とおばさんは言うから、小豆にした。安いからである。200グラムで380円程度だったと思う。一方、ささげは70グラムしか入っていないのに500円程度はする。まあ、小豆でいいだろう…、と。
おばさんが教えてくれたので、もち米を十分に洗ってから、一晩もち米を水に浸した。
起きてみると、水がだいぶ減ってもち米が膨らんでいるようだった。
ここで先ずは第1の失敗に気づく。というのは、1㎏パックを全部あけて洗ってしまったことだ。このアパートで使っている電気釜は、お米は一升、おこわなら6合炊きだ。なので、このまま全部入れてみた。果たして炊きあがるのか、心配になってきた。水を吸い込んでふくれあがったもち米をいまさら計量しても手遅れだし…。結果は、オーライだったが、この時は不安だった。
いまさらどうにもならないもち米はいいとして、次は「小豆」を炊く。200グラム全部鍋に入れて沸騰したら中火にした。これもおばさんに教えてもらった。で、30分程度だったか…、炊くのだが、この際にコツがある。これを忘れると、ヤバイ。
炊いている最中、煮汁をお玉ですくってから、サラサラぽたぽたと高いところから鍋に落とすという手法だ。これは、煮汁が空気と触れることで、あの「赤飯色」に変色する効果があるのだ。これに手間がかかる。炊いていればお湯が少なくなるので、適度に水を追加していく。
確かにおばさんが教えてくれたように、この手間を加えると、みるみるうちに変色が始まった。
「お~~ッ、なるほど」と、歓声を上げてしまった。
少し固めに炊きあげるのがコツであるが、初心者のボクは食べて確かめたが「ふつうの硬さ」だった。
さあ、次はまた新たな鍋を用意して、煮汁と小豆をわける。放置しておくと、小豆が煮汁を吸い込んでふやけてしまうからだ。煮汁を別の鍋に移したら、そのまま鍋のまわりを水で冷す。こうすれば煮汁も冷える。
いよいよ釜入れだ。
迷う暇はない、洗った1㎏のもち米を全部電気釜に移す。もちろん水は切った。
続いて、冷えた煮汁だけをもち米に注ぐ。そして、かき回す。炊きあげた小豆を上にパラパラとちらしてもち米を覆った…。
第2の失敗は、煮上がった小豆をどうすべきか、取材不足。仕方がないので、まずはこうしてみた…。
ところが、第3の失敗に気づく。小豆が多すぎる。200グラム全部使うのかと思いきや、半分以上は鍋に残ったまま。仕方がない、お汁粉にしちゃった。これはこれで、あとで餅を焼いて食べましょう…。
待つこと、おおよそ40分程度…。
いよいよ作品の出来具合は…。
「お~~~ッ、やったジャン!」
まさしく自画自賛。この歓声。ひとり、アパートで歓声を上げる。ボク人生に新たな成果を創り出した歴史的瞬間、である。写真を撮らなかったが、まあ、そんなことはいい…。
第4の失敗に気づく。
やはり、小豆はもち米と混ぜてから炊くことだった。仕方がない、おしゃもじで混ぜた。
いい色になっている。まさしく赤飯色、ではないか。さっそく、大型のタッパーに詰めて会社用と同僚の病院用にわける。ゴマ塩を忘れてはいけないので、スーパーに立ち寄る…。おばさんに「出来たよ、教えてもらったとおり創ったら出来ちゃったよ」と報告。「えらいねぇ」とおばさんが笑う…。「ゴマ塩のふりかけ、ついでに買いに来た」というと、「こんどはそれも自分で創りなよ、教えてあげるから」とコーチしたいみたいだった。
会社では、ヤッちゃんにオスギ姉御、ナオミちゃんにトオル、シュウちゃんが歓声を上げてくれた。
「ホントに自分でくったの?女の人でも今はお赤飯炊ける人、そんなにいないわよ」なんて、ヤッちゃんが最大級の誉めことばを送ってくれた。
「うんうんうん…、おいしい」と、感動しながら食べてくれたのはナオミちゃんと。
「すげぇ」の感嘆詞は、あのトオルだった。「うまいうまい」と言ってくれた…。
病院では、「作ってくれたんですか、ありがとうございます」と喜んでくれた。
彼らのお世辞に乗るのがボクのいいところ。
で、次にナラちゃんに電話報告したら、「値段は高いけどササゲのほうがいいんじゃないのぉ」との助言。
よし、わかった。で、「ささげ」を1袋購入。よく読むと、1㎏に対して70グラムと明記してあった。なんだあ、200グラムは多すぎたわけだ。
同じ手法で今度は「ささげ」を投入して、炊きあげる。完成時間も同じだった。
釜のふたを上げたとたん、気づいた。明からに「ささげ」のほうが、「赤飯色」だ。デパートで売ってる赤飯の色になった。「これだ!」
ボクは、子供時分からもち米が大好きだからお袋は事あるたびにもち米を炊いた。赤飯以外にも、栗おこわや五目なども創っていたことを想い出したのだ。
よし、それを創る!
始めたのは「栗おこわ」である。もち米シリーズ3回目の挑戦だ。
瓶詰めの栗を3つと「金時豆」。金時豆の煮方は同じだが、煮汁は使わない。
これも、見事に完成した。会社の仲間たちに作品を運び、また自画自賛。
そして次の晩は、第4弾「五目おこわ」に挑戦だ。
こんにゃく、椎茸、れんこん、ぎんなんなどを購入。ネモコとシミヒロにも手伝ってもらった。
これも見事な出来映えだった。だが、昨日の「山菜おこわ」は失敗している…。失敗の原因は、水が足りなかった。
失敗から学んだことは、2つだ。
おこわづくりの最大のポイントは、もち米と水に分量、である。
味付けは個人の趣向でいいけれども、とにかく水の分量を間違えたら致命傷である。
電気釜でも炊きあがることがわかった。電気釜では、一晩もち米を水に浸さなくてもいいこともわかった。だが、もち米をきちんと計量して、それにあった水で炊くことだ。これさえ守れば、誰にでも出来る。
第2のコツは、もち米を十分すぎるくらい洗うことだ。うるち米よりも2,3倍の手間をかけて洗えば、電気釜でも美味い味になって完成する。
もうひとつ付け加えるとすれば、出来れば「ケチ」らないことだろう。小豆でもいいけれど、ちと高価だが「ささげ」を使いたい。その方が「本格的」である。
そろそろ七五三。電気釜で赤飯を炊いてみようではないか。
…まさみ…
この週末、例によって浅草に。うなぎでも食べようと…。
小柳にするか、それともいつものつる屋にするか…と、新仲をぶらぶら歩いていたら、いつものマルベル堂の看板が目に入る。
浅草には散々行っているけれど、子供時分からこの写真屋さんにひとりで入ったことはない。女優さんのプロマイドを買って、定期入れに忍ばしていた男たちは確かに多くいたが、ボクはそんな趣味はない。映画を見ればいい。女優さんは銀幕の中にいるものと決めていたので、写真にして眺めると、どうも印象が違ってしまう。ボクにとっての永遠の女優・加賀まりことて彼女のブロマイドは持ち歩いたことはない。
ところが、このときに限って、ひらめいた!
はじめてひとりでマルベル堂に入ってみた。狭い。
「なかはらみさおって、おいてあります?」と、店員さんに伺った。
「女優じゃないんですが…随分昔の歌手なんですが」
「誰だろう…調べてみましょう、あるかもしれない…」
そう言って店員さんはマルベル堂の所蔵ノートを開いて調べてくれた。
「あッ、ありますねえ。この字でいいのかしら?」
芸能人の名前がびっしり書き込んであるノートには、確かに、
「中原美紗緒」と書いてある。間違いない。
「在庫は…ないかもしれない…、あっ、ここにありますねぇ」
「えっ、あるんですか!」
驚いたのは、ボクだった。
店員さんは在庫をかき分けてくれて、数カットある中原美紗緒さんの写真をガラスケースの上に並べてくれた。
ボクが覚えている彼女の印象とは随分違う写真だったが、まあいい。で、何枚か買い込んだ。
「この写真、マルベル堂さんのオリジナルですか?」
「ええ。ほとんどそうですね。ウチのスタジオで俳優さん達が来て撮った写真がほとんどです。たまに、相手のスタジオなどに行って撮影することもあったようですが」
そう説明してくれた。中村錦之助も大川橋蔵も、高倉健さんも、そしてひばりさんもみんなマルベル堂のスタジオで撮影したようだ。将に、日本の芸能史が飾られてある。
そう言えば、「ブロマイド」という呼び名を、商品名にしたのも確か、マルベル堂さんがはじめられたことだったと、どこかで聞いたことがあったが…。
実はボク、映画も大好きだが、音楽も好きなのですよ。いまだに。映画には音楽がつきもの。テーマ曲を聴くと映画がよみがえる。
映画には様々なジャンルがあるが、音楽にもまた様々な分野がある。シャンソンも、そのひとつ。
子供時代、そんな小難しいことはちっともわかっていなかった。ただ覚えていたのは床屋さんのラジオから流れていた「パリのお嬢さん」。あのメロディと彼女の歌声だった。真っ直ぐな歌声に、子供だったボクははじめて大人の女性の歌声を感じて、笛吹童子や紅孔雀みたいなチャンバラ世界とは明らかに別世界を感じた。
メロディもテンポも、当時の聴き馴染んだ歌とはまったく違って聞こえた。「こういう歌もあるんだ…」と、興味を抱いた。ボクの生活とはまったく違う人が歌っている、そんな歌声に聞こえて、いつまでも耳に残った…。
はじめて彼女を見たのは、お蕎麦屋さんのテレビだった。テレビからこの曲が流れていた。歌っている大人の女性をボクは見た。「この人なんだ、なかはらみさお、っていうんだ…。名前までおんなっぽくない。外人と友だちみたいだなあ、この人…」と、住む世界の違いを実感。そして、子供ながら「きれいな人だなぁ」と思った。
以後、歌手の中で、一番のお気に入りになったが、ボクは長い間こころにしまって、秘密にした。
「女優は加賀まりこ、歌手は中原美紗緒」と公然と言えるようになったのは、大学に入ってからだ。
こうしてふり返ってみると、東映チャンバラ映画専門小僧から、洋画を見るきっかけを創ってくれたのは明らかに中原美紗緒さんの「パリのお嬢さん」だった。この出逢いが益々ボクの映画好きに拍車をかけた。極端だが、やがて青年時代、アラン ドロンやジャンヌ モローの映画を追いかけたのも、その始まりは中原美紗緒さんの歌声だったなあと、といえる。
お袋にせがんで代金をもらい、渋谷から地下鉄に乗って銀座に行き、ジャクリーヌ・フランソワのレコードを買い込んできたのも、中原さんの歌声のおかげだ。そんなことも、買い込んだ彼女の写真を見ながら想い出した。お恥ずかしい話だが、ジュリエット・グレコは彼女よりもずっと後になって知った。大学の頃は、ダニエル ヴィダルが随分はやったことも想い出のひとつだ…。
シャンソンって、大ホールがお似合いのオペラのアリアと比べたら、こぢんまりとしたカフェとか、アコーデオンを持った大道芸人が舗道で鼻声混じりに歌っているような気軽な雰囲気がよく似合う歌声だと、ボクはあの頃そう感じた。
大ホールで聴くアリアもいいけれど、でも、上手に歌ってくれるシャンソンはなんだかいつまでも耳に残る…。
いまさらだが、いつか自分の舞台でシャンソンを使ってみたくなった…。
中原美紗緒…詳しく取材したことはないけれど、たしか、もともと二期会出身だったと思うが。
澄んだ歌声のわけです。
(写真は「マルベル堂」で購入)
…まさみ…
3年ぶりになる。Mのピアノを聴いた。
今日、サントリーホールでMがピアノを弾くから聴きに来ないか、とのメールが届いたのは一昨日のこと。席がまだ空いているから…と書いてあった。あらかじめ、Mが切符を抑えていてくれたが、行ってみると満席だった。
Mには事あるたびにメールを出してはいたけれど、返信はなかった。毎年8月、ボクの書いた台本で音楽劇をしている。Mは6年間ずっと一緒にいてくれたが、突然連絡が取れなくなった。Mがいない音楽劇ではいつもピアニスト探しに躍起になってしまう。
クラシックはもとより、歌謡曲、唱歌、アニメソングにディズニーメドレー、はたまたジャズと、ボクの舞台で使う音楽はジャンルがない。たとえ譜面があっても、役者のキーに合わせて演奏すれば2度か3度は転調して演奏する必要がある。「そんなことできません、いきなりいわれても」なんていうピアニストが多いけれど、Mは全くそんな心配はいらなかった…。
ボクは学生時代、金管を吹いていた。その頃から、どうもピアノさんとは縁がない。同じ楽団にいても滅多に話しなどしたこともないのがピアノさんだった。個人的性格なのか、ピアノさんと仲良しになったことはなく、むしろ愛想が悪かった…。ところが、Mは全く違っていた。初対面の時からどこか話しやすかった。
この3年間、ときどきMを想い出していた。
ひょっこり、メールが来た時は気が動転していたのか、こちらの電話番号を書き間違える始末。
そして、今日。
久々にMのピアノが聞けた。相変わらず素敵な演奏をしてくれる…。
公演後、お土産の「大学いも」と「舟和のあんこ玉」を手渡した。「ごめん、8月は忙しくて出られないけれど…笑えた?」「ああ、笑った」「また焼き肉…ねっ」「ああ」
それだけだった。
「また、いつか、ね」3年ぶりで、Mの声も聞けた。
いつか、ねぇ…。今日は、いい日になった。
…NY152…
東日本大震災から今日で10日目。日を追って過去に経験したことのない難題が次々に起こっています。この深刻な状況の中で困難を乗り越えるべく、国とともに一丸となってボクたち職場や友だちはこの難局を乗り切る行動を始めています。
未就職者のための緊急人材育成の学院を創設しましたが、突然の大災害から全国に散在する支援事業の中で、閉講に追いやられたスクールもあります。教室自体が使い物にならなくなったり、講師の故郷が東北だったためにそのご家族の安否の確認などから授業が出来なくなったところもあります。
直接、地震津波の災害は免れたものの人的損失は計り知れません…。そんな状況なかで、ボクたちが出来ることは授業がなくなり、就職のために技術を習得したくても行き場のない参加希望者を引き取ることなら出来ます。現にそう決断した時、電話が鳴り「なんとかして欲しい」と54歳の男性から依頼がありました。国からもらった受講証がありながら、スクールが閉鎖してしまったために授業に参加できなくなったのです。
「直ちにハローワークと連絡を取って下さい。当学院での受け入れはまったく問題ありませんよ」
そう返事をしたら大変安心をなさいました。果たしてこの男性が当学院に来られるとは限りません。別のスクールを探してそちらに行くかも知れませんが、ボクたちは開講するギリギリの日まで受け入れていきます。
事務所はビルの3階です。あの日、新聞社でも使用している鉄製の本棚は、支柱が歪み、本や書類が散乱しましたが、その程度の難ですみました。
そして本日、広々としていた事務所内に壁を這わせて、ドアを2つ取り付け、今までの事務所空間とは一変してまるで、学校の教室のようです…。ボクたちはずっと奥に追いやられて、長細い部屋が出来上がってそのかなで仕事をすることになりました。
心配なのは肝心のPCです。発注してもまだ届きません。あと、14台が足止めを食っているようです。
14台が届けば、OSを入れ直したり、必要な基本ソフトやフォントなどをいれたり。それがすんだら全PCをケーブルで繋がなくてはいけません。その作業はきっと徹夜状態になるはずです。
どうあれ、開講に間に合うのか…それが心配です。

